日光市議会議員 阿部かずこ

市民の皆さんと練り上げたい

政治理念と政策提言 政治理念と政策提言

理念と使命〜⽬指したい社会

あなたは幸せですか?

⼈はさまざまな理由で⼈⽣の苦境に⽴ちます。
虐待、いじめ、不登校、病気、障がい、離婚、介護・・・。
どんな時でも、あなたに降りかかる困難を共に担い軽くする、
それが「政治」の役割です。

⼈は誰しも、⽣きているだけで価値がある。
誰をも取り残さない。
⾃然を汚さず、次世代に受け継ぐ。

⼈⽣を閉じるときに「⽣きてきて良かった」と、
誰もがそう思える社会に。

あなたが明⽇の⽣活を⼼配せず、⼈間の尊厳を失わず、
何度でもやり直せる社会を構築するために、私は働きます。

あなたのもとへ⾏き、あなたの声を聴きます。

どうすれば困難から⽴ち直れるのか?
そのために尽くせる同志を探し、共に勉強し政策提案し
実現のために汗を流します。

阿部かずこの社会への視点

私たちの生活は、政治の在り方と直結しています。
30代で栃木県認可のミニディサービスの仕事を始めて、住んでいる市町村で介護サービスに格差があることを知りました。当時は介護保険制度もなく、認知症になっても受けられるサービスは特別養護老人ホームの入所くらいしかありません。訪問介護もありましたが独居老人にしか来てくれず、食事を作れない人に行っているのに、年末年始は来てくれません。酷い時代でした。では誰が看ていたのか、お嫁さんと言われる女性です。こんなに大変な介護を一人で担うお嫁さん。介護に生活時間を取られ自分のことにかける時間はなく、家族も手助けせずお嫁さんはぼろぼろでした。しかし東京では市民団体が訪問介護を担い、給食サービスがありました。東京ならお嫁さんの生活は楽になるでしょう。これは誰のせい?と考えるようになりました。

当時家族の介護問題は家庭の問題でした。その中で介護の社会化・一万人市民委員会が立ち上がり、介護は嫁が担うものではない、社会で担うものだと、介護保険制度創設に向けてロービー活動(特定の主張を有する個人または団体が政府の政策に影響を及ぼすことを目的として行う私的な政治活動)が盛んでした。奇遇にも今市市でも介護の社会化・一万人市民委員会の集会があり、パネラーとして登壇しました。
この体験が、生活と政治が関係するのだとおぼろげにわかった時でした。介護という生活上の困りごとを介護保険制度創設という政治の仕事で救われる、生活と政治は地続きなのだと。

現在の例では、非正規雇用者が増え貧困が拡がっていることが分かりやすいと思います。その要因は政治による正規雇用の解禁と産業保護の撤廃です。政治が格差社会を拡大させたと言えます。国立大学の授業料は、1990年の33万9600円から53万5800円へと約6割も上昇。日本総研経営戦略クラスター長・主席研究員の東秀樹氏は「国の政策転換が学費の値上げにつながっている」と指摘し「これは04年に国立大学が法人化され、受益者負担へと政策が転換されたからです」と話しています。

このように私たちの生活と政治は直結しています。私はみなさまの生活をよりよくするための政治を行いたいです。生活から政治を考える人たちを増やして行きましょう。

阿部和⼦の15の政策提⾔

  • ⾏財政改⾰

    2027年には⾚字財政が⾒込まれている⽇光市の財政状況に対して、公共施設マネジメントの推進、補助⾦の適正化、新たな財源の確保など抜本的な改⾰を訴え続けると同時に、改⾰への市⺠の理解を得られるように、財政危機宣⾔の発令を市に求めています。

    詳しくは、活動報告1へ
  • 貧困対策

    ⽀援が必要な⼦どもたちが、引越しや転校などがあったとしても、どこに住んでいるのか、どのような⽀援が必要なのかを把握できるような「⼦ども成⻑⾒守りシステム」を、⼤阪府箕⾯市の例に学んで提案しています。⽣活困窮世帯の親に対する⾃⽴⽀援についても、⾮正規雇⽤が増えてしまう国策の転換を国に求めると同時に、⽇光市での安定的な雇⽤環境つくり(中間的就労)を推進します。

    詳しくは、活動報告2へ
  • 不登校対策

    さまざまな事情や理由で学校に通えない児童・⽣徒が増え続けています。2016年に制定された、教育機会確保法に準じた、⼀⼈ひとりの状況に合った学び⽅や育ち⽅、学習権を保障する仕組みづくり、場づくりについては、⺠間だけに頼るのではなく、公的なサポートが必要です。他の⾃治体が⾏っている「公設⺠営」の例などに学びながら、より良い仕組みづくりの提案を続けていきます。

    詳しくは、活動報告3へ
  • ⼦育て⽀援

    私⾃⾝の⼦育て経験からも、育児は孤独だと知りました。また、⽇光市の出⽣数は、平成28年が500⼈、令和元年が391⼈と急激に減少しています。まずは「この町なら⼤丈夫!もう⼀⼈産めるかも」と思えるような環境を作り、核家族、男⼥平等でない⼦育て、地域の遊び場の消失など、⼦育ての現状にあるさまざまな問題の解決に対する対策を進め、産前から産後、そして⼦育て期と、地域全体で育む包括的⼦育て⽀援政策を求めていきます。

    詳しくは、活動報告4へ
  • 教育改⾰

    これからの時代を⽣きる⼦どもたちの学校教育は、どのような⽅向に向かうべきでしょうか?⼦育て経験と不登校の⼦どもたちの⽀援を通して現⾏の教育制度に疑問を持ち、国内外の教育制度について調べるなかで、⽇本は「⼤⼈から⼦供に押し付ける」詰め込み教育から、⼦どもたちを主体とする学びのあり⽅を探り変⾰していく時期にあると考えます。その具体策や仕組みづくりを、市⺠の皆さんと⼀緒に考えていきたいと思います。

    詳しくは、活動報告5へ
  • 発達障がい児・者の⽀援

    ⽇光市では、教育委員会に臨床⼼理⼠が2名配置され、発達障がいのこどもたちの早期発⾒、早期療育が⾏われています。しかし年々増える発達障がいのこどもたちの⽀援に個別の療育指導まで⼿が回らず、教育員会所属のために中学校在籍時までしか⽀援が出来ません。また、市は「こども発達⽀援センター」を直営で運営していますが、⼩学校⼊学前のこどもたちの利⽤が主です。年齢で区切られない切れ⽬のない⽀援を⽇光市で構築していくことが必要です。いじめにもあいやすく仕事も⻑続きしないなど苦労が絶えない発達障がいの⽅々が、早期診断、早期治療、⽣涯に渡る⽀援が受けられるように全⼒を尽くします。

    詳しくは、活動報告6へ
  • 男⼥共同参画社会の実現

    先進国の中で最も男⼥平等から遠い国、⽇本。男⼥共同参画社会とは、「男⼥が、社会の対等な構成員として、⾃らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男⼥が均等に政治的、経済的、社会的及び⽂化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。このような社会が実現できて初めて、政治の場でも、さまざまな施策が、より⽣活者⽬線で⽴てられるようになると信じています。そのためにも、保育園、学校教育、市役所の職員の待遇などにおいて、考える機会を創出して発信していきます。

    詳しくは、活動報告7へ
  • 障がい者⽀援

    ⽇光市でも、⾝体の障害、知的障がい、精神障がいのある⽅、指定難病や⼩児慢性特定疾患などの病を抱える⽅の公的⽀援を受けるための⼿帳等の取得者は、年々増加傾向にあります。今後、特に公的な⽀援を考えていかなければいけないのは、介護している親が⾼齢化して親なき後に派⽣する諸問題、利⽤するサービスがなく引きこもってしまう事例だと思います。精神障がいを持つ⽅への⽀援が遅れていることも問題です。福祉施設での虐待や不適切な対応の事例もあります。弱い⽴場にある⽅々の権利を守り、家族や当事者を地域社会の中で孤⽴させないような⽀援のネットワークと仕組みづくりを続けていきます。

    詳しくは、活動報告8へ
  • 介護政策

    介護保険の制度創設から20年⽬を迎えますが、度重なる改定があり、そのことで利⽤制限と利⽤料が上昇し、介護保険がだんだん使えなくなる状況があります。厚労省が検討する⽅向性では、利⽤者・家族に⼀層の苦難を強いるもので、事業者の経営環境もさらに厳しい状況になってきています。⽇光市でも社会福祉協議会運営の2カ所のディサービスの撤退、特養の経営者がたびたび変わること、ショートスティの減少、介護⽀援専⾨の定年問題など介護保険事業サービスが後退しています。地域の介護基盤が脆弱になれば、サービスを適切に受けられない介護難⺠が⼀段と増加する懸念があり、対応策を考えていきます。

    詳しくは、活動報告9へ
  • ⼈⼝減少対策

    どの地⽅でも喫緊の課題となっている⼈⼝減少、少⼦⾼齢化の問題は、社会福祉・社会保障制度の問題と切り離して考えることはできません。社会福祉は、本当に困っている少数の⼈々を、その他の⼤勢の⼈々でサポートするものであればこそ、持続可能な社会制度たり得るのだということを忘れてはならないと思います。急速な⼈⼝減少の流れは、なかなか変えられない状況です。⼈⼝減少を前提とし、その中で豊かな社会を模索する「⼩さな暮らし」と「少⼦⾼齢化の社会でも対応できる社会保障制度」への転換を、具体策を探りながら提唱していきます。

    詳しくは、活動報告10へ
  • 外国⼈移住対策

    介護施設の⼈出不⾜で外国⼈の⽅の雇⽤が始まっています。⽇光市も例外ではありませんが、お⼦さんが不登校になり、その影響で離職せざるを得なかったケースの相談を受け、働き続けていただくには、職場環境の整備だけではどうにもならない問題だとわかりました。⽇光市も先を⾒据えて、外国⼈の⽅にしっかりと雇⽤の担い⼿となっていただき、かつ⽇光に来てよかったと思っていただけるような環境づくりが必要です。その施策づくりへの提案を、他の⾃治体のリサーチを続けながら⾏っていきます。

    詳しくは、活動報告11へ
  • 観光政策

    世界遺産⻤怒川温泉など多様な観光資源を有する⽇光市ですが、まだまだポテンシャルを上げられる余地があると考えています。当市の年間来訪者は1200万⼈。宿泊者は330万⼈。外国⼈観光客宿泊数は、宿泊事業者の協⼒により宿泊数を把握しており、令和元年は約9万3,000⼈と、合併後の平成19年の約8万1,000⼈と⽐較し14.9パーセント増加しております。しかし、外国⼈に限った⼊り込み客数や祭事やイベントでの外国⼈の参加者数は把握できていません。戦略を⽴てるために必要なデータを独⾃に整備することと、昨今の状況を踏まえてのワーケーション施策の整備などを提案していきます。

    詳しくは、活動報告12へ
  • 市⺠活動⽀援

    訪問看護の看護師として地域医療、地域福祉に携わった経験、などから、多くの福祉問題には⾏政の⼒だけでは対応できない、市⺠もともに担う時代だと思い、6年にわたりボランティアコーディネーターとして活動し、2003年にNPOを⽀援する中間⽀援団体「NPO法⼈おおきな⽊」を⽴ち上げました。その経験から市⺠活動⽀援センターの必要性を当時の市⻑に提⾔し、2003年に開所の運びとなりました。議員としても、市⺠⼀⼈ひとりが⾝近な社会的課題を捉えて、その緩和と解決に向けた⾏動を⾃ら⾏えるような環境づくりを⾏い、またそうした活動をしている団体を応援するという形での助け合いの輪を広げていき、⽀え合うコミュニティーを創り上げていきたいと考えています。

    詳しくは、活動報告13へ
  • 災害対応

    平成27年、関東豪⾬の影響で⽇光市芹沢地区に⼟⽯流が発⽣し、⾃衛隊派遣を要請するほどの被害となりました。以降も、地球規模の気候変動により、年々⾃然災害のリスクが⾼まっています。災害対応としては、防災無線による情報伝達について、地域間の格差、⾵⾬時の聞き取りにくなどの解消が図られるように、また災害発⽣時の災害ボランティアセンター設置時の運営を、機動性の⾼いものにすることなどを提⾔していきます。

    詳しくは、活動報告14へ
  • 脱原発推進

    東日本大震災での東京電力福島第一発電所の事故は、国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)レベル 7という極めて深刻なものであったとされています。多くの方が故郷を失い、日本国内において現在でも非常事態宣言が継続しているなか、現在でも4000人の方々が廃炉作業に携わっています。日光市も汚染状況重点調査地域に指定され除染対象となりました。現在でも日光市産の農林水産物のうち、「野生のきのこ」や「野生の山菜類」、「シカ肉などの野生生物」放射能基準値を超過しており被害は受け続けています。

    このような現実を直視したいと、2016年、2019年に現地視察の会に参加し、被災者の方の声も聞く中で、危険で莫大な費用が掛かる原子力発電によるエネルギー政策には反対の立場で、安全なエネルギー政策の推進を考えていきたいと思いを新たにしています。

    詳しくは、活動報告15へ
 

日光市議会議員 阿部かずこ

市民の皆さんと練り上げたい

政治理念と政策提言

プロフィール

阿部 かずこ(あべ かずこ)
昭和38年
  • 栃木県下野市生まれ。
昭和56年
  • 小山城南高等学校衛生看護科卒業
昭和58年
  • 済生会付属高等看護専門学校卒業
  • 済生会病院、自治医科大学病院勤務
平成3年
  • 結婚のため退職し旧今市市へ転居
平成6年
  • 仲間と共に宅老所「ひばり」設立
平成14年
  • 市民活動支援センターの設立を提案
  • 「NPO法人おおきな木」を設立・運営に携わる
平成15年
  • 旧今市市 市民代表として合併協議会委員を務める
  • ケアマネージャー、DV被害者支援、引きこもり支援などに従事
  • 精神疾患の方専門の訪問看護師として働く。
平成26年
  • 日光市議会議員 初当選
  • 総合計画検討調査特別委員会副委員長
  • 教育建設水道委員会副委員長
平成30年
  • 日光市議会議員 2期目
  • 広報公聴委員会委員
  • 議会運営委員会委員

history1 生い立ち history1 生い立ち

自立のために看護師をめざす

私には兄がいたのですが、小さい頃に交通事故で命を落としました。父と兄が釣りに出かけた先でのことです。父の後ろを歩きながら横断歩道を渡っていたところ、前方不注意のトラックに跳ねられ内臓破裂で亡くなってしまったのです。


幼い頃に亡くなった兄(写真右)

それから父は、自分を責めるようになり、ギャンブルに走り、母に暴力をふるうようになりました。今でいうDVですよね。母は母で、兄を亡くしたことで父を責め続けましたから、父も辛かったのだと思います。今ではもうぼんやりとした記憶になってしまいましたが、母は私を抱いて線路に立っていたこともあります。その時に私が「殺さないで」というようなことを言ったようで、それでふみとどまってくれたと聞きました。


父と小学生の頃の私

父からは「女に学はいらない、中学を卒業したら働け」と言われ続けていました。中卒で働くといっても何をして生きていけばいいのかわかりません。中学2年の時に、父が家を出ていく形で、両親は離婚をしました。そのこともあって、とにかく自立しなきゃ!それには看護師か保育士か・・・と考えていて、当時住んでいた小山市の城南高校に看護学科があったので、そこに進みました。

母と二人暮らしの家から高校に通いましたが、母はとにかく私が家を出てしまうことを極度に恐れていました。結婚も必ず婿をとれ、と。高校で准看護師の資格は取れましたが、やはり正看護師の資格が取りたいと考えて、母の許しをようやくもらって、2年間の条件付きで宇都宮市に出て、済生会病院の専門学校で2年間学びました。母に支配されていたような日々から抜け出せて、ようやく自分を取り戻したような気がしていました。そして私が19歳の時に、家を出ていた父が自死したという連絡が来ました。辛い事実ではありましたが、看護師になる勉強をしながら、また、母と離れ自分を取り戻しつつあった生活で父の自死を受けとめたことは、その後の私の死生観に大きな影響を与えています。

history2 看護師時代 history2 看護師時代

少しずつ社会への視野が広がって

済生会病院付属の専門学校で学んだのは、卒業後に済生会病院で働けば学費がタダになるという制度があったからです。アルバイトも済生会病院でのみ許されて、他は禁止でしたが、外の世界を経験したいという欲求を抑えきれずに、こんなところにまで学校の先生は来ないだろう・・・という、流行っていない喫茶店でアルバイトをしていたら、クリスマスの日にたまたま偶然、先生が店に入って来て・・・。呼び出されて怒られて。小山市なら見つからないだろうと思って准看護師として病院でのアルバイトもしました。その時は、患者も家族も長期の入院者は劣悪な状況にあるケースもあることを知りました。病院以外に入れる高齢者施設や障害者施設とかないので、もう10年も病院にいるという人もいました。それもゴキブリが這うような部屋に家族が泊まりこんで・・・。夜勤を任せられた時も、救急車だって来る病院で、准看護師のバイトの私に夜勤を任せるの?という驚きもあり・・・、
現実を知る経験ができました。

専門学校2年目の夏休みは、新島へ。旅行ではなく、これまたこっそり、観光客相手の食堂で、丸々1か月の住み込みアルバイトをしたんです。キッチンに入るも、野菜すら満足に切れず「お前、使えないなあ」と呆れられ、次は、手動でハンドルを回して、かき氷づくり。これは、バッチリでした。看護師必要があれば患者さんを抱え上げますし、体力・腕力はあるんです。他のアルバイトも、「バイト代がたまったらハワイに行ってプロサーファーをめざす」という16歳の高校中退生がいたり、自由人が集まってきて、看護学校では経験できないような、いろんな価値観や生き方に触れることができました。オーナーさんは、バイトせいの無断外泊は強制送還するなど厳しい人でしたけど、オーナーさんに気に入られて娘さんとも仲良くなって、楽しい夏休みでした。そして夏休みギリギリまで滞在して、始業式に間に合うように戻ろうとするも、9月は台風シーズン。天候があれて、飛行機も飛ばない、船も出航できないという事態に。仕方なく学校に電話をして「風邪をひいてしまったので始業式を休みます」と。前科があるので、先生もいぶかしげな対応でした。次の日には戻れて登校しましたけれど、何しろ全身、真っ黒に日焼けしています。「ちょっと阿部さん」と呼ばれて問い質されます。「この夏休み、そこで何をしていたの?」「2泊3日で海へ行ってきました!私、とても日焼けしやすくで・・・」。
合コンという言葉が生まれたり、日本がバブル景気に向かうころ。看護学校の同級生もみんなイケイケドンドン。そんな時代でした。


看護学校時代に友人達と(写真左下が私)

正看護師としての最初の担当は消化器外科の病棟でした。当時は3交代の勤務で、とてもハードな勤務。今でいうと、めっちゃブラックですね。37年前ですから、癌の告知も本人には行わないのが普通の頃。患者さん達と接しながら、年齢に関係なく人間はいつ死ぬかわからない、と、そういう思いがしっかりと私に刻まれた日々でした。


正看護師時代の私(写真後列、左から2人目が私)

その後、母が住んでいた結城市に戻って、勤務先も自治医科大学附属病院へ変わったのですが、思い立って「看護学校の先生になろう!」と、25歳から入れる看護学校教師養成の学校に入ったのです。1年間、倫理学を中心に、みっちりと学びます。髪の毛1本の命とは?胎児の命とは?など、人の生命の定義をチームでしっかり討論しながら考える授業などが印象に強く残っています。学びながら、悩みながら、自分の考えを整理して結論を出さないといけない。その上、個別課題も出されます。先生との面談でも深い問いを投げかけられ、自問自答の繰り返し。そして教育実習。とても勉強になったけれど、私は教員は向いていないと悟って、また病院の現場に戻りました。もちろん、この時の学びは、しっかりと私の糧になっています。

history3 子育てと市民活動時代 history3 子育てと市民活動時代

困っているのは、私だけじゃない

自治医科大学附属病院では、NICUと言って新生児特定集中治療室の担当を最後に結婚で退職し、日光市へ転居しました。同じ県内とはいえ、友達も親戚もいない土地で、アトピーと喘息、そして難病の病を持った娘と息子を育てながら、私自身も新たな学びの日々の始まりでした。


子供達と

子どもの難病は、成人して完治しましたが、看護師時代とはうって変わって、当事者家族としての立場でしかわからないことが見えてきました。社会的に助けてくれる仕組みがあまりに少ないこと、そして困っているのは、私だけではないこと。
そんな中で、ボランティア活動という生き方に出会います。病院で、入院中のお子さん向けの読書活動などをしている人の存在を知ります。かつての職場である病院に相談してみましたが、子連れでは受け入れられない、と。保育園にも幼稚園にも入る前の子どもの預け先もありません。その壁に阻まれて挫折。その後、栃木県社会人福祉協議会で、福祉がわかるライターを養成する講座が開かれることを知り、受講しました。こちらの講座は、子育て中の方にも受けて欲しいと、2人の保育士さんを雇用していたんです。それで3歳の長女を見てもらいながら受講しました。

そこで出会った平木ちさこさん(元日光市議会議員、前栃木県議会議員)から、高齢者のデイホーム事業を始めるので手伝ってほしいと言われて、宅老所「ひばり」立ち上げに参加したのが、市民活動へのきっかけです。もう一人、生協活動で知り合った伊藤さんも加わり、3人で試行錯誤しながら開所式やチラシ作成など、いろいろやって鍛えられましたね。
平成6年です。介護保険はもちろん、まだ「NPO」という言葉も日本ではない時代です。NPO法人の根拠となっているNPO法(特定非営利活動促進法)ができたのが平成10年で、全くの任意の市民活動ですが、市が県に手を上げてくれて栃木県の委託事業として取組めることになりました。

お預かりする高齢者の方には認知症の方もいらっしゃいますし、毎日が試行錯誤とドタバタの経験。介護するとか、リハビリするとかではなく、その時間を無事に安全に一緒に過ごす。私が看護師でもあるので、まず相手の話をじっくり聞くことから始めます。年齢を聞くと85歳の人が、私30ですと真顔で答えます。馴染みのないところに連れてこられるから、家に帰ろうとする。帰らせまいと阻止しながら、どうしたら、ここで落ち着いて過ごしてもらえるかを、みんなで考えました。9時から4時くらいまでお預かりして、その間に家族の方達には休んで貰わなければいけません。私たちも必死でした。そんな中で、ある時、庭で焚き火をして焼き芋をしたら、皆さん、とても落ち着いて楽しまれていたんです。イナゴを採りに行ったこともありました。徘徊するに人には、交代でついていくようにして、車道を歩く時に、車側に回ってお年寄りを守ろうとすると、逆に動いて私を庇ってくれることもありましたね。認知症の症状も理屈ではなく、一緒に行動しながら肌感覚で理解していくしかないと思います。家族会も開催して家族の話を聞いたり、認知症の高齢者を抱える家族同士の交流の場を作りました。その聞き取りの中で、お嫁さんの孤独な状況も見えてきました。

history4 ケアマネ、中間支援、訪問看護、そして議員へ。 history4 ケアマネ、中間支援、訪問看護、そして議員へ。

支援が必要な人へのサポート、支援する人へのサポート。

その後、子どもの病気の悪化などもあって1年半ほどで宅老所「ひばり」の仕事から卒業しました。しばらくは育児に専念しつつ、「ひばり」卒業と前後して仲間達と立ち上げていた、会員制家事援助介護サービス「ウエーブ」と今市ボランティアセンターに関わることにしました。喘息などが悪化していた子どもの育児に支障のない範囲で、ボランティアとしての活動です。


子供を連れながら「ウェーブ」での市民活動を行っていた

平成7年にNPO法、平成12年に介護保険法ができて、法整備も市民の活動に追いついてきました。「ウェーブ」も平成11年に特定非営利活動法人となり、翌年には介護保険事業も開始します。そこで、育児も落ち着いてきた私が試験を受けてケアマネージャーとして働くようになりました。介護保険の創設期ですから、周りに聞いても手探り状態で、とても大変でした。


ケアマネージャー時代、利用者さん達と

ケアマネは、要支援・介護認定者の家族や本人からの相談を受けて、その人にあった、介護保険のサービス受ける計画を作って、自治体や介護サービス事業者との調整などを行います。何年も、いろんな事情を抱えた当事者や家族の対応にあたるうちに、この制度設計のまずさも見えてきました。例えば、その一例ですが、介護の事業者が、受け入れるエリアを指定できます。日光市で言えば、例えば、交通費や時間などがかかり採算性が合わない栗山地区の高齢者はエリア外として、送迎を行わない・・・など、事業者が決めることができます。全国一律に、利用者が福利を得られるわけではない。介護保険料は払っていても、サービスが利用できないという実態もあります。その後、2年近く経ってケアマネの後継者ができたので、私は一旦、ケアマネの役目を終えました。

それまでの経験から、行政の支援が及ばないところでのきめ細やかな支援をどうして行けばいいのか、どうしていくべきかを考える中で、今市ボランティアセンターの活動は、充実させた形で今後も必要だと考えて、市民活動の拠点作りやNPOの中間支援的なサポートの必要性を感じるようになり、他県の先進地などへ視察に行き、市民ボランティアセンターの設立の要望書を作成して市長に提出したのです。その提案が認められ、市の事業として設立が決まりスタッフの募集が始まりました。阿部さんが提案したことだから責任持って働いたら?という声に押されて応募して働かせていただきました。その後、中間支援団体の「大きな木」を仲間と設立して、市民ボランティアセンターの指定管理者を受託。今は、次の世代に引き継いでいます。その間に、市の担当課の皆さんと一緒に新しいNPO法人の立ち上げをサポートしたり、一緒に視察に行ったりもしていました。その後は、若者の居場所づくりのために「NPO法人ハートネット」を立ち上げましたが、ほとんど収益がなくアルバイトが必要になり、訪問看護ステーションに登録して、精神疾患がある方の訪問看護などを行いながら活動を続けていました。その後、市が、引きこもり相談センター「かがやき」を立ち上げたので、私たちの役目は終わったとして、10年間続いたハートネットを閉じました。

自分自身の経済的な自立の必要性から選んだ看護師という職業。そして持病を持った二人の子どもを育てながら、手探りで進んだ福祉の世界。ボランティア、市民活動、NPO法人。その経験の中で、なかなか解決できなかったこと、十分な支援ができなかったこと。次は、議員という立場で、しっかりと市民のみなさまの側に立って取り組んでいきたいと考えるようになり、日光市会議員選挙に立候補したのは、平成26(2014)年のことでした。


はじめての街頭演説